小田原征伐とのぼうの城あらゆる説の歴史を公開!!

豊臣秀吉が北条氏を征伐した小田原の役と映画のぼうの城

豊臣秀吉の小田原征伐

豊臣秀吉の小田原攻めは、多くの歴史小説などでも取り上げられる戦いですが、その評価というのはどのようなものなのでしょうか?もともと小田原城を本城とする北条氏は、越後の上杉、甲斐の武田との抗争を繰り返し、劣勢の状態でした。

この劣勢を挽回するために徳川家康と同盟を結び、さらに織田信長に臣従するものの、関東一円の主である北条氏にたいし、自国領を保持し続けようとする北条氏は、自らの考えに靡かないということで織田側にとっては目障りな存在でもあったようです。

織田信長亡き後、天下を取ったのは豊臣秀吉でした。

秀吉はなんとか関東東北も掌握したいと考えますが、北条氏の存在がこれを邪魔します。

北条氏政は豊臣秀吉に臣従することを潔しとせず、拒否。

実はすでに長年の敵であった上杉や佐竹などが秀吉陣営に属しており、後から秀吉と臣従した場合には、上杉や佐竹の下につくことになることになります。

ですが、北条一門の間でも、氏政の考えにつくもの、穏健派といって秀吉陣営についてもいいのではと考える者など、実は水面下では意見が分かれていたといいます。

結果として、北条氏は破れ、小田原城は開城、秀吉の天下取りの大詰めの対戦だったとうことになりました。

のぼうの城のあらすじ

のぼうの城は2007年に刊行された和田竜さんの歴史小説で、2012年には映画化されて話題になりました。

現在の埼玉県行田市にある忍城の城主、成田氏一門の長親は、領民からは親しみを込めて「のぼう様」と呼ばれる人物でした。

当時、天下統一目前の豊臣秀吉は、北条氏の小田原城を支える支城の一つであった忍城の城攻めを石田三成に命じます。

ですが、実はもともと忍城の城主氏長はすでに裏で豊臣川に降伏を内通していた状態でした。

石田三成はそれを知りながらも戦を仕掛けます。

裏で行われていた降伏、ですが、それを知らなかった総大将・長親は、戦を始めることになります。

四方を水に囲まれた浮城でもある忍城の戦法は籠城戦。

地の利、士気の高さにより序盤は長親有利の戦況でしたが、攻める石田三成は利根川の水を利用した水攻めを行い、本丸を除いて忍城は沈んでしまいます。

しかし、忍城は長親の一計により持ちこたえ、水攻めは失敗。

その後豊臣軍によって北条市の小田原城陥落の報を開城したものの、小田原城陥落時に支城として持ちこたえたのは、忍城だけだったのです。

成田長親の生涯

成田長親は1545年に成田泰季の子として産まれます。

成田泰季は現在の埼玉県行田市にあたる忍城の城主、成田氏長の弟で、成田氏は1560年より小田原・北条氏の配下であり、忍城は小田原城の支城として勢力をもっていました。

長親の父、泰季は成田一門では発言力もある存在でしたが、長親はとくに武勇があるわけでもなく、智にたけている明けでもない凡人であったと言われています。

この長親が城代として活躍することになるのは、豊臣秀吉による小田原攻めの際、秀吉に命じられて支城の一つである忍城を落とすように命じられた石田三成による城攻めの時です。

当時忍城には成田氏家臣が300、領民などが2700、合計3000が籠城し、父・成田泰季がなくなったのち、その子である長親が成田一門の筆頭として城代の役割を担うことになりました。

籠城をする忍城に対し、石田三成は水攻めを行うも、堤防が決壊して石田勢の兵が失われるなどうまくいかず、忍城は難攻不落の城としてあり続けます。

長親は本城である北条氏の小田原城の開場後も忍城に籠城し、小田原より帰還した城主・成田氏長の説得によって開城、その後蒲生氏郷預かりとなります。

下野国に移り住み、その後さらに出家して尾張国大須に移り住み、64歳で生涯ととじたと言われ、現在も大須の大光院にお墓があります。

石田三成はなぜ忍城攻めに失敗したのか? 

豊臣秀吉の小田原攻めの際、石田三成は支城の一つである忍城攻めを命じられます。

四方を水に囲まれた浮城でもある忍城を攻めることになった石田三成は、力技で攻める物のなかなか攻め落とすことが出来ずに、近くに流れる利根川の水を利用した水攻めを行うことになりますが、この水攻めは失敗に終わります。

どうして水攻めは失敗に終わったのでしょうか?この水攻めをコミカルに描いた「のぼうの城」では、狙撃された城代・成田長親を慕う領民・百姓が、長親が狙撃されたことや、耕作地を台無しにされた怒りから築いた堤(石田堤)を壊し、水攻めが失敗する。

ということになっていますが、実は石田堤が完成した後、大雨が降り堤が壊れて石田三成の軍勢に多くの被害が出たことたようです。

ただ、実際には石田三成は水攻めを本来は考えておらず、水攻めはあくまでも豊臣秀吉が考え、支持をしたものだったようです。

この石田三成の忍城攻めの失敗は、実は石田三成のせいではなく、豊臣秀吉が現地の状況を知らないまま指示を出した結果だったというのが本当のところだったようです。